ログイン「それ」「何?」「今、俺に聞く?」「聞くよ」隼人くんの目が。ゆっくり細くなった。「全然大丈夫じゃないよ」声が掠れている。視線が私の唇へ落ちる。「綾香ちゃんがここにいて」「自分から触ってきて」また私を見る。「それで平気な顔してる方が無理でしょう」思っていなかった言葉だった。普段なら。もっと余裕のある言い方をする。少し笑って。私が恥ずかしくなりすぎないように。 最後には必ず温度を薄める。でも今夜は。薄めない。「ずっと」隼人くんの指が。 私の髪へ触れる。「触りたかった」耳の後ろへ払う。「キスもしたかったし」指先が首筋へ移る。その先まで言いかけて。一度、口を閉じた。喉が動く。私は。その続きを聞かなくても分かった。「今日まで」隼人くんが静かに続ける。「綾香ちゃんが、自分から選ぶまで待つつもりだった」少しだけ。自嘲するように笑った。「今日も、そのつもりだったんだけどね」「玄関は?」聞くと。隼人くんが一瞬、目を逸らした。「……無理だった」あまりにも素直で。少しだけ息が漏れた。隼人くんがすぐにこちらを見る。「笑った?」「笑ってない」「今、笑ったよ」「だって」少し迷う。「こんな隼人くん、知らなかったから」その言葉に。隼人くんの表情が止まった。しばらく。私を見る。「俺も」やがて。低く答えた。「自分がこんなになると思ってなかった」胸の奥が締めつけられる。「綾香ちゃんのことだけ」頬に触れていた手が。 少しだけ強くなる。「本当に、うまくできない」「うまく?」「余裕あるふりするのも」「待つのも」一度。息を吐く。「誰かに取られる可能性を残しておくのも」目が逸れない。「全部、嫌になる」さっきまで。何を考えているのか分からなかった人の感情が。今は。探す必要もないほど近くにあった。視線にも。触れ方にも。呼吸にも。全部に。優との結婚では。いつも私の方が、相手の気持ちを探していた。会いたいのか。触れたいのか。本当に必要とされているのか。言葉にされないものを。必死に拾っていた。今は違う。隼人くんの気持ちは。近すぎるほど伝わってくる。私は。頬へ添えていた指を動かした。親指で。 隼人くんの輪郭をゆっくりなぞる。「まだ怒って
唇が重なった瞬間。さっきまで交わしていた言葉が、遠くなった。父のことも。 郁人先生との縁談も。 隼人くんが家を継ぐと決めたことも。何も解決していない。それでも今は。頬を包む手の温度と。 触れた唇だけが、ひどく鮮明だった。最初は、確かめるような口づけだった。けれど。すぐに変わる。隼人くんの指が、頬から耳の後ろへ滑る。髪の中へ入り。 後頭部を支える手に、少しだけ力が入った。強引に逃げ道を塞ぐほどではない。それでも。離れることを考えていない触れ方だった。角度を変えて。 また唇が重なる。さっきより深く。私が息を吸おうとした時には。 隼人くんの呼吸も、もう整っていなかった。「……隼人くん」名前を呼ぶ。唇が離れた。でも。顔は近いままだった。鼻先が触れそうな距離で。 隼人くんが私を見る。いつもなら。少し困ったように笑う。私が戸惑っていれば。 すぐに温度を下げる。今夜は違った。目の奥にあるものを。 隠し切れていない。苛立ち。安堵。それから。私がここにいることを、何度でも確かめたいような熱。こんな隼人くんを。私は知らなかった。誰とでも自然に話して。相手が心地よくいられる距離を、ほとんど間違えない人。感情を見せすぎない。でも。 冷たいとも思わせない。その人が今は。私を前にして。 いつもの形へ戻り切れていない。「綾香ちゃん」低く名前を呼ばれる。次の瞬間。腕が腰へ回った。椅子に座ったまま。 身体が隣へ引き寄せられる。肩が触れる。膝が重なる。そのまま。 身体の間にあった空気がなくなった。ワインの香り。シャツに残った香り。近すぎる距離で感じる、隼人くんの体温。私は反射的に。 隼人くんの肩へ手を置いた。シャツ越しに。 身体の硬い線が伝わる。そこから。少し迷って。首の後ろへ腕を回した。その瞬間。隼人くんの呼吸が深くなった。瞼が一度だけ下がる。ほんの短い仕草だった。でも。私が触れることを。 ずっと待っていたのだと分かった。「私も」声が少し震える。隼人くんが目を開く。「近づきたいって」首へ回した腕に、少し力を込める。「言ったでしょう」「うん」声が低い。「覚えてる」私から。 ほんの少し身体を寄せ
沈黙が続いた。隼人くんの表情は。まだ読めなかった。怒っているのか。傷ついたのか。それとも。何かを決めたのか。ただ。グラスの脚へ添えていた指だけが。ほんの少し強くなった。「選択肢って」やがて。静かな声が落ちる。「他の男との縁談を受ける選択肢の話?」「それは」「綾香ちゃん」名前を呼ばれた。いつもの柔らかな声ではなかった。低くて。静かで。その先を遮るような響きだった。「普段は」隼人くんが言う。「綾香ちゃんの選択肢、尊重するよ」「今日ここに来てもらったのも」一度。私の目を見る。「綾香ちゃんの意思だったからだし」「何かする時も」声は落ち着いている。「綾香ちゃんが嫌なことはしたくない」「それは、これからも変わらない」そこで。隼人くんの目が。少しだけ細くなった。「でも」空気が変わる。「綾香ちゃんが、他の男を選ぶかもしれないっていう選択肢だけは」少しの迷いもなく。言い切った。「これからも消すよ」息が止まった。「綾香ちゃんの意見を聞かずに」声は静かだった。「必要なら、何回でも」あまりにも身勝手で。あまりにも。普段の隼人くんらしくない。それなのに。冗談ではないことだけは分かった。「それは」「分かってるよ」少しだけ口元が歪む。「今の、相当勝手なこと言ってる」「じゃあ」「でも変える気ない」返事が早かった。隼人くんは。そこでグラスを手に取る。一口も飲まず。立ち上がった。そして。向かい側ではなく。私の隣へ座る。急に。距離が近くなる。グラスをテーブルへ置く。ほとんど音はしなかった。その動作が。妙に自然だった。私が身構えるより先に。隼人くんの指が、耳の横へ落ちていた髪へ触れる。ゆっくり。後ろへ払う。さっきまで。あれほど言葉でぶつかっていたのに。距離を詰めることに。迷いがない。私が逃げない位置も。呼吸が少しだけ乱れる距離も。自然に知っている。指先が、耳の下へ残る。「俺」低い声だった。「物にも」「人にも」一度。私の目を見る。「執着したこと、ほとんどないんだ」その言い方は。どこか自分自身を説明しているようだった。「欲しいものがあっても」「手に入らないなら、それでいいって思えたし」「誰かが離れていっても」口元が少しだけ
隼人くんは、斜め向かいの椅子に座ったまま。テーブルの下で組んでいた指を、まだ解かなかった。さっき。「話すまで、そっちにいて」そう言ったのは私だった。隼人くんは笑った。慣れている男の。 いつもの余裕に近い笑い方だった。でも。その目には、玄関で見た熱がまだ残っている。私はグラスへ手を伸ばした。もう一口飲む。冷たいワインが喉を通り。 そのあとから、アルコールの熱がゆっくり身体へ広がった。それでも。緊張は消えなかった。隼人くんもグラスを持ち上げる。少しだけ飲んで。 静かに戻した。「まだ話すこと残ってるから」低い声だった。「うん」「先に、それ話そうか」私は頷いた。その方がいい。このまま触れられたら。まだ胸の奥に残っている怒りも。 言わなければならないことも。全部。別の熱に紛れてしまいそうだった。少しの間。どちらも話さなかった。窓の向こうでは。 遠くの道路を走る車の灯りが、細く流れている。隼人くんはグラスの脚へ指を添えたまま。少しだけ視線を落としていた。「今日」先に話し始めたのは、隼人くんだった。「あんなふうに話す綾香ちゃん、初めて見た」「どんなふうに?」「兄貴との縁談を、ありがたい話みたいに言って」親指が、グラスの脚を一度なぞる。「兄貴のことを尊敬してるって言って」「仕事では、これからも関わりたいって」そこで。ようやく目が上がった。「正直」声が少しだけ低くなる。「聞いたまま冷静でいるの、結構しんどかった」私はグラスを両手で包んだ。「あれ、兄にも言われた」「真哉さんに?」「うん」「優との結婚で学んだんだなって」隼人くんは何も言わない。続きを待っている。「前の結婚生活で身につけた身のこなしが」私は少しだけ口元を歪める。「こんな時に役立つとは思わなかった」相手を不快にさせない。意図は理解していると伝える。その上で。拒みたいことだけを、反論しにくい形で返す。優の妻だった頃に。いつの間にか身につけたものだった。あの頃は。自分を押し込めるために使っていた。今日は。自分の意思を守るために使った。「隼人くんも」私は言う。「あんな顔するんだね」眉が少しだけ動く。「あんな顔?」「父たちと話してた時」グラスから手を離して。隼人くんを見る。「すご
二度目の口づけは。最初より少しだけゆっくりだった。それでも。隼人くんの手は、まだ腰から離れない。唇が離れたあとも。 親指が腰の後ろで一度だけ動いた。「……このままだと」掠れた声が落ちる。「ちゃんと話せなくなる」そう言うのに。顔はまだ近い。視線も、私の唇から離れていなかった。「離れる気ない顔してる」隼人くんが少し止まる。「ないよ」あっさり認める。「でも、綾香ちゃんまだ怒ってるでしょう」「怒ってるよ」「うん」「だからって、帰りたいわけじゃない」隼人くんの目の奥に、また熱が戻る。「それ今言われると困るね」「どうして?」「また触れたくなるから」胸が跳ねた。それでも。今度は隼人くんの方から一歩離れた。その距離の取り方が。あまりにも自然だった。近づいたあと。 相手が息を整える時間を作る。気まずくならないように、次の動作へ移る。「上着、預かるよ」私は上着を脱ぐ。隼人くんは受け取り。 襟を整え、ハンガーへ掛ける。動作に迷いがない。そこで。ふと気づく。この人は。慣れている。誰かとの距離を詰めることにも。触れたあとに相手を落ち着かせることにも。どこで止まるべきかを判断することにも。全部。たぶん、知っている。そう思うと。胸の奥が少しざらついた。私だけが。まだ唇の熱を持て余しているような気がする。でも。隼人くんは上着を掛けたあと。 すぐには振り返らなかった。背を向けたまま。袖口を一度整える。短く息を吐く。それを見て。少し考えが変わる。慣れている。でも。今夜まで余裕があるわけではない。落ち着いているのではなく。落ち着こうとしている。「こっち」振り返った隼人くんについて、リビングへ入った。***大きな窓の向こうに夜景が広がっていた。高い天井。 抑えた照明。眼鏡。 読みかけの本。 充電器につながれた端末。整った部屋の中に。隼人くんの日常だけが静かに残っている。「座って」私はダイニングの椅子へ座る。隼人くんは向かいではなく。 少し斜めの位置へ座った。近すぎず。 遠すぎない。表情も見える。 手を伸ばせば届く。その距離まで。自然だった。また思う。慣れている人だ。相手を緊張させすぎない。でも。 興味がないとも思わせない。「まだ
車が地下駐車場へ入ると、窓の外から街の明かりが消えた。白い照明が、一定の間隔で車内を横切る。隼人くんは最後まで、ほとんど何も話さなかった。ラウンジを出てから。 車の中でも。何か一つ口にしたら。 抑えているものまで全部出てしまうと分かっているようだった。私は膝の上で指を重ねる。帰りたくないと言った。もっと近づきたいとも言った。今も、その気持ちは変わらない。けれど。 何も相談せず、大きな決断をしたことへの怒りまで消えたわけではなかった。車が停まる。エンジンが切れると、急に隼人くんの呼吸だけが近くなった。すぐにはシートベルトを外さない。前を向いたまま。 しばらく動かなかった。「綾香ちゃん」「うん」ようやくこちらを見る。表情はまだ読めない。「本当に、帰らなくていい?」最後の確認に聞こえた。「帰らないよ」隼人くんの喉が動く。少し長く私を見たあと。 自嘲するように口元を歪めた。「……今日の俺、相当ダサいね」「ダサい?」「うん」眉間を指で押さえる。「兄貴に嫉妬して」「綾香ちゃんが兄貴を褒めたのも気に入らなくて」「そのうえ、帰したくないとか言ってる」少し笑う。でも。 目は笑っていなかった。「こういう余裕ない男、俺が一番嫌いなんだけど」「じゃあ、どうして?」隼人くんが私を見る。「分かってても、今日は無理だった」声が少し低くなる。「綾香ちゃんが悪くないのも」「兄貴が何かしたわけじゃないのも分かってる」「それでも嫌だった」その一言だけ、少し掠れた。「今、帰らないって言われて」一度、私の唇へ視線が落ちる。「かなり安心してる」「そうは見えないけど」「見せないようにしてるから」少しだけ、いつもの笑い方に戻る。「これ以上ダサくなりたくないし」「もう遅くない?」言うと。隼人くんが一瞬止まり。 小さく笑った。「そうかもね」ようやく、シートベルトを外した。***車を降りる。地下駐車場は広く。 車同士の間隔も十分に取られていた。照明は明るいのに、人の気配はほとんどない。見覚えのある種類の空間だった。優と暮らしていたマンションにも。 似た静けさがあった。外から帰ってくれば。 人とほとんど顔を合わせることなく、そのまま部屋まで上がれる。エントランスも。 エレベーター
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦







